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最終更新日 2024年3月31日

情報発信元 経営戦略室

越前市ゆかりの人物

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ゆかりの人物

本多富正と府中
松井耕雪と立教館
本多副元と進修小学校
渡邊洪基
栗塚省吾
齋藤修一郎
町村金弥
土肥慶蔵
三田村甚三郎
市川新松
望月信亨
秋山徳蔵
岩崎文江
いわさきちひろ
若泉敬

本多富正と府中 (ほんだとみまさとふちゅう)

元亀3年(1572)から慶安2年(1649) 78歳 没
本多重富の子として、三河国(愛知県岡崎市)に生まれました。15歳の時より徳川家康の次男秀康に仕え、慶長6年(1601)、秀康の越前国(68万石)への入国とともにこれに従い、附家老として府中(武生)領3万9千石を治めました。富正は、徳川家康、秀忠、家光三代の信任が厚く大名並の待遇を受け、福井藩からは府中領内の自治権を与えられるなど、藩同様の扱いを受けました。
当時、府中は戦乱(織田信長の朝倉攻めや一向一揆鎮圧)のため、荒廃していました。富正は、日野川の治水工事や町用水の改修を行い、街並を整備しました。産業面でも保護奨励策をとり、打刃物業・織物業等の発展に努力し、現在の武生の基礎を築いた人物です。また、福井藩の筆頭家老として藩全体の政治・経済の発展に手腕を振るいました。

→→本多家と忠臣蔵の意外な関係(福井藩本多家江戸屋敷)

松井耕雪と立教館 (まついこうせつとりっきょうかん)

文政2年(1819)から明治18年(1885) 67歳 没
府中大黒町(現元町)に生まれ、富商松井家の9代目で、名を篤、耕雪・翠堂などといいました。
幕末のころ府中には藩校がなかったので、他藩に遅れることを心配した耕雪は安政3年(1856)、私財を献金して、藩校建設を願い出て、「立教館」を現NTTの場所に創立し、有能な教師を招いて人材の育成に努めました。「立教館」からは、渡邊洪基(東京帝国大学初代総長)などの優れた人材を送り出しました。耕雪は、武生の教育の礎を築いた人物であり、公会堂記念館入口にある建学記念碑は、その功績を記念したものです。
「立教館」は、その後、本館の場所に移転し、福井藩主松平春嶽より贈られた「進脩(しんしゅう)書院(しょいん)」の書より名をとって元治元年(1864)に「進脩黌(しんしゅうこう)」と改名し、明治5年(1872)「進脩小学校」に引き継がれました。
また、耕雪は、福井藩主松平春嶽に重んじられ、福井物産総会所の総代となり、産業振興にも活躍しました。

本多副元と進修小学校 (ほんだすけもととしんしゅうしょうがっこう)

弘化2年(1845)から明治43年(1910) 66歳 没
常陸国(ひたちのくに)府中藩松平家に生まれ、本多家の養子となり、文久3年(1863)9代当主となりました。福井藩筆頭家老で、藩主名代として、京都の守護・水戸浪士の討伐・長州征伐・会津征伐に出陣しました。明治維新後は、明治12年(1879)に華族に、同17年(1884)に男爵となり、貴族院議員を務めました。
明治5年(1872)、学制の発布に伴い、藩校「進脩黌(しんしゅうこう)」の後を継いだ進脩小学校が、陽願寺と引接寺を仮校舎として設立されましたが、大変不便でした。これを聞いた副元は、翌6年(1873)教育の振興こそ武生の発展の基礎であるとして、旧本多館跡(現在の市役所の地)と500円を寄付し、地元民の協力を得て、翌年、一部3階建の西洋式の塔を備えた校舎が完成しました。

渡邊洪基 (わたなべこうき)

弘化4年(1847)から明治34年(1901) 54歳 没
府中善光寺通り(現越前市京町二丁目)に渡邊静庵(医者)の長男として生まれました。10歳の時、「立教館(りっきょうかん)」に入学、その後、福井・江戸にて漢学・医学・理科・英語・政治や兵術等を学びました。
明治維新後、大学・外務省などに勤務して、諸条例の制定・改定に参画しました。その間明治4年(1871)22歳の時には岩倉具視らに随行して欧米の視察に出かけました。同18年(1885)東京府知事・翌19年(1886)には39歳で東京帝国大学初代総長となり、同23年(1890)には特命全権大使としてオーストリアに駐在しました。その後、衆議院議員・勅選貴族院議員などになりました。
洪基はたびたび郷里に帰り、国事のみでなく、郷土の発展にも尽力しました。教育、法制、行政、外交とその活躍範囲は広いものでしたが、漢学についても素養があり、多くの漢詩を残しました。

栗塚省吾 (くりづかせいご)

嘉永6(1853)年から大正9年(1920) 68歳 没
越前府中領主・本多家の江戸屋敷詰め家臣 栗塚義兵衛の長男として生まれ、江戸で育ちました。幼少より漢学を学び、11歳で英語、14歳でフランス語を学び、明治3(1870)年、福井藩の貢進生として大学南校 (後の開成学校、東京帝大)に入学しました。同5年、明法寮生徒を申し付けられ、同8年、司法省最初の留学生としてパリ大学法学部に入学、その時の卒業論文は、栗塚の蔵書とともに、今も越前市中央図書館に保存されています。帰国後は、司法省刑事局長・同民事局長・大審院判事・同部長などを歴任し、日本法曹界の先駆者と言われました。
退官後は弁護士となり、明治35年から衆議院議員に3回当選。その間房州小湊鉄道・東亜製鋼などの社長にも就任しています。武生郷友会創設の主要メンバーで、平成27年春にTBS系列で放送されたドラマ「天皇の料理番」では、秋山徳蔵に西洋料理の修行先を紹介する郷土の大先輩として登場しています。

齋藤修一郎 (さいとうしゅういちろう) 

安政2(1855)年から明治43年(1910) 55歳 没
府中の眼科医斎藤策順の長男として生まれ、明治2年(1869)14歳の時、沼津兵学校付属校に入学し、英語・漢学・数学を専攻しました。翌年、福井藩の貢進生として上京し大学南校(東京大学の前身)に入学、在学中に南校が開成学校に組織替えとなった際、その開業式で生徒総代として明治天皇の前で御前講演を行っています。
明治8年、第1回官費留学生としてアメリカのボストン大学に入学し、滞米中、小説家エドワード・グリーとともに為永春水の『いろは文庫』を英訳して日本文学を広く紹介しました。ルーズベルト大統領は、この本を読み日本を深く理解したため、のちのポーツマス条約で日本に比較的有利となるように計らったとも言われています。
明治13年に帰国してからは、外務省に出仕し井上馨外務卿の下、条約改正交渉の懐刀として活躍しました。同26年、農商務次官に就任しますが政争に巻き込まれ、官界を去っています。修一郎は、郷里武生に対し、常にその慢心に警鐘を鳴らし、産業振興の啓蒙に努めました。

町村金弥 (まちむらきんや)

安政6年(1859)から昭和19年(1944) 86歳 没
領主本多家館北側(現府中一丁目)に町村織之丞の長男として生まれ、「立教館(りっきょうかん)」・福井藩校「明新館(めいしんかん)」を経て、明治4年(1871)上京し、苦学をしながら同8年(1875)、東京工部大学予科に入学、翌年札幌農学校に第2期生として転学しました。農学校では、酪農研究家ダン教授の指導を受け、後継者として北海道開拓事業にその生涯を捧げ、「北海道酪農の父」といわれるまでになりました。在学中は内村鑑三や新渡戸稲造らと親交を結び、卒業後、技師として北海道の大農式酪農経営にあたりました。
明治43年(1910)東京に移り、武生郷友会副会頭として奨学金制度を創設するなど郷土の人材育成に貢献しました。
酪農への努力は、長男敬貴に受け継がれました。昭和19年(1944)、郷里武生の地で亡くなりました。

土肥慶蔵 (どひけいぞう)

慶応2年(1866)から昭和6年(1931) 66歳 没
府中松原(現NTTの地)で石渡宗泊の次男として生まれ、24歳の時、母方の叔父土肥淳朴の養子となりました。13歳で上京して東京外国語学校、東京帝国大学医学部に学び、明治23年(1890)同校を卒業しました。同校助手・大学院卒業を経て、ドイツ・フランスなどに留学し、皮膚病学等を学びました。
同31年(1898)に帰国後、東京帝国大学医学部助教授としてわが国の皮膚病学の創始者となり、同年33歳で教授、翌年、日本皮膚科学会の会長となりました。その後は後輩の指導にあたるとともに医学上の多くの業績を残しました。ヨーロッパの国際学会でも広く活躍し、当時の皮膚科学の世界的権威でした。
一方、武生郷友会を創立し、上京して勉学する学生の支援に尽力し、また、若越(じゃくえつ)医学会を創設するなど郷土の人々の教育にも力を尽くしました。

三田村甚三郎 (みたむら じんざぶろう)

慶応3年(1867)から昭和9年(1934) 68歳 没
越前府中(現越前市あおば町)の打刃物問屋に生まれ、進脩小学校(現武生東小学校)、福井中学校を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、ここで政治を学びました。明治30年には福井県会議員に当選し、青少年教育は国家進運の基礎であるという考えをもっていたことから、武生尋常中学校(現武生高等学校)の設立に貢献しました。明治31年には衆議院議員に当選。憲政党(けんせいとう)に属し、大隈重信の推奨を受け国民党福井県支部を創立しました。明治32年には福井新聞を創刊し社長に就任しました。明治45年10月に武生町長に当選し、5期18年にわたり町長を勤めました。町長時代には、武生大火からの復興、高等女学校の創設、街区の整備拡張、町役場の改築、武生町立図書館の建設、公会堂(現武生公会堂記念館)の建設推進など数々の功績があげられ、現在の越前市の礎を作った人物といえます。
また、甚三郎は書画を愛し、謡曲、俳諧に通じており、晩年、石川県片山津の旅宿で詠んだ「鴨鳴いて 落日寒き 湖畔かな」は辞世の句となりました。

市川新松 (いちかわしんまつ)

明治元年(1868)から昭和16年(1941) 74歳 没
足羽郡三尾野(みおの)村(現福井市三尾野町)に、打方新兵衛の次男に生まれ、26歳の時、中新庄町の市川弥次兵衛の養子となりました。15歳の時、三花小学校卒業とともに母校の代用教員となり、その後、独学して33歳で三重県師範学校教諭、37歳で山梨県師範学校教諭となりました。教諭の時代に鉱物に興味をもち、研究を始め、やがて一生をかけて水晶の研究を続けようと決心し、40歳で教員をやめて武生に帰りました。そして市川鉱物研究所を建て、その後、亡くなるまで33年間独学で鉱物、特に水晶の研究に専念しました。そして、周囲から「水晶博士」と呼ばれるまでになりました。45歳の時には、万国地質学会から招待されるほど有名になり、世界各地から水晶についての研究依頼を受けました。

望月信亨 (もちづきしんこう)

明治2年(1869)から昭和23年(1948) 80歳 没
今立郡村国村(現越前市村国三丁目)松原新六兵衛の5男で勝次郎といい、12歳で浄土宗僧侶となり名を信亨と改めました。浄土宗本校卒業後、天台学専攻のため、比叡山延暦寺に入り、その後、神戸市の望月有成の養子となりました。
明治32年(1899)浄土宗高等学院の教授に就任する一方、雑誌『宗粋』『宗教界』を発刊し、同39年(1906)頃より『仏教大辞典』7巻(明治42年[1909]~昭和11年[1936])の編さんに着手しました。早稲田・天台宗・宗教の各大学で仏教学を教え、同45(1912)、南条文雄らと仏書刊行会を組織し、『大日本仏教全書』150冊(明治45年[1912]~大正11年[1922])を刊行しました。宗教大学・大正大学の学長を歴任した後、昭和20年(1945)浄土宗管長、知恩院(ちおんいん)門跡(もんぜき)となりました。
その著書はたくさんありますが、とりわけ彼が編さんした『仏教大辞典』は『望月辞典』と呼ばれ、今もなお、名著として高く評価されています。

秋山徳蔵 (あきやまとくぞう)

明治21年(1888)から昭和49年(1974)86歳 没
秋山徳蔵は、明治21年(1888)8月30日、今立郡国高村村国(現越前市村国三丁目)の旧家で裕福な庄屋であった高森家の次男として生まれました。
明治40年頃、徳蔵は西洋料理の修業の為に上京し、当時東京でしのぎを削っていた名店等で腕を磨いていきました。明治42年、20歳の時に、単身シベリヤ鉄道経由で渡欧しました。最初はいじめられ、からかわれ、無視もされましが、持ち前の負けん気と根性で修行を続け、パリにある最高級レストランの料理長に認められ、プルミエ・コミ(シェフの次の格)の証明書をもらいます。いわば免許皆伝です。これで徳蔵は本場パリで一流の料理人として認められることとなりました。
その後、日本人シェフとして名をあげていった徳蔵のもとに、パリの日本大使館から、日本に戻り天皇陛下の料理人になるようにとの要請がきました。徳蔵がフランスでの料理修行の未練を断ち切って、日本行きの船に乗ったのは、大正2年3月のことでした。帰国後の大正3年7月、徳蔵は下宿していた秋山家の一人娘俊子と結婚し、秋山姓となります。そして、その年の10月末宮内省からの採用通知が届きます。
大正天皇ご即位の大礼で迎える国賓を本格西洋料理で饗応することが徳蔵の使命でしたが、初の大役をものの見事に成功させ、大正6年12月、宮内省より大膳寮厨司長を拝命します。その後も、大正期から昭和期にかけて大膳のトップ(総料理長)を勤め、宴席料理では献立、氷細工、演出全てを仕切り、欧米諸国だけでなく、諸外国の賓客からその腕を絶賛されました。

岩崎文江 (いわさきふみえ)

明治23年(1890)から昭和52年(1977) 86歳 没
岩崎文江は、長野県に生まれ、松本高等女学校を卒業後、明治42年(1909)に開校されたばかりの奈良女子高等師範学校に入学しました。大正2年(1913)奈良女高師を卒業すると同時に、武生町立実科高等女学校に新任教師として赴任するため、武生にやってきました。
文江は、その後6年間にわたり、草創期の武生の女子教育向上のために尽力しました。また、寄宿舎の舎監も兼務し、多くの生徒たちを育てました。文江は、当時の寄宿舎生活を懐かしがり、「初夏のほたる狩り、お盆の燈籠流し、さては月見に山遊びに、大根洗ふ秋の日、冬軒を鎖さず大雪や、水つき、三大節の夜の面白い晩餐会の余興、夏の夜の雷さわぎ、次から次へと思いは絶えぬあの寄宿舎生活、かくして私共の懐しき思い出を蔵する武生町よ、永遠に幸あれと賛美したくなります。」と同窓会誌に記しています。
大正7年(1918)同じ長野県出身の倉科正勝を婿養子に迎え結婚、その後も単身武生で教師を続けましたが、同年12月15日、旧武生町橘区(現・天王町)84番地の古着・質商を営む梅田宅の離れで、長女ちひろ(のちに画家となるいわさきちひろ)を出産します。翌年3月、文江はちひろとともに武生を去り、その後も東京で教師を続けましたが、初任地・武生への思いは深く、ちひろを連れ武生を訪れるなど、教え子たちとの交流は晩年まで続きました。ちひろもまた、「生まれただけの土地なんだけど、とっても懐かしい気がするの」と息子である松本猛に語っています。

いわさきちひろ 

大正7年(1918)から昭和49年(1974) 55歳 没
岩崎正勝(建築技師)と文江(武生町立実科高等女学校教師)の長女として、母が単身赴任していた越前市天王町(旧武生町橘区)で生まれました。本名は、知弘(ちひろ)。大正8(1919)年、生後約3ヶ月で東京に移りました。東京府立第六高等女学校在学中から岡田三郎助に師事し、デッサン・油絵の勉強を始め、女学校卒業後は、藤原行成流の書を小田周洋に、絵を中谷泰、のちに丸木俊にも学びました。
昭和20年(1945)5月の空襲で東京の家を焼け出され、母の実家の長野県松本市に一家で疎開、終戦を迎えます。昭和25年、松本善明と結婚、翌年に長男猛が誕生。以後、絵本画家としての活動を精力的におこないました。
昭和48年に、『ことりのくるひ』(至光社)でボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞。子どもを生涯のテーマとして描き、9,400点余の作品を残しました。代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、『あめのひのおるすばん』(至光社)など。
また、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)に代表されるように、いのちと平和の大切さを訴え続けた画家としても知られ、いまなお多くのファンに愛され続けています。アトリエがあった東京都練馬区の自宅跡に「ちひろ美術館・東京」、両親ゆかりの地である長野県北安曇郡松川村に「安曇野ちひろ美術館」、越前市天王町に「ちひろの生まれた家」があります。

若泉敬 (わかいずみけい)

昭和5年(1930)から平成8年(1996) 66歳 没
旧今立町横住(現越前市横住町)で生まれました。昭和24年に福井師範学校を卒業し、東京大学法学部に入学。卒業後、保安庁保安研修所(現防衛省防衛研究所)の教官となりました。その後、イギリスやアメリカへ留学し、国際関係論を学び、昭和41年に京都産業大学世界問題研究所教授となりました。昭和42年(1967)に福田赴夫(ふくだたけお)自民党幹事長より、沖縄返還についてアメリカ首脳の意向を内々に探るよう頼まれ、当時の首相佐藤栄作(さとうえいさく)の密使として、沖縄返還交渉にあたりました。この交渉は若泉敬とアメリカ特別補佐官であるキッシンジャーとの間で行われました。この時の交渉については著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の中で、「戦争で失った領土を一兵たりとも動かさず、終始平和裏(へいわり)の交渉で回復したことは、確かに歴史上稀有(けう)なことである。このことをモデルに国際的問題を解決されることを願っている。」と記しています。そして昭和47年に沖縄が返還されます。昭和55年には一線を退き、住居を東京より鯖江市「無畏無為庵(むいむいあん)」に移します。ここには親交のあった各国の現職大使が度々訪れたようです。

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