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最終更新日 2023年10月17日

情報発信元 かこさとし ふるさと絵本館「石石」(らく)

かこさとし(加古里子)さんの紹介

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かこさとし(加古里子)さん

本名 : 中島 哲(なかじま さとし)

1926(大正15)年3月31日生 から 2018(平成30)年5月2日没

福井県旧今立郡国高村(現 福井県越前市)生まれ

絵本作家、児童文化研究者、工学博士、技術士(化学)

旧今立郡国高村(現 越前市八幡一丁目)に生まれたのち、旧武生(たけふ)町(現 越前市錦町)へ転居。
1931(昭和6)年、天台真盛宗 別格本山 引接寺(いんじょうじ)境内の丈生(じょうせい)幼稚園(現 越前市京町三丁目)に入園。
1932(昭和7)年、武生東尋常高等小学校(現 武生東小学校)に入学。
1933(昭和8)年、兄の進学を機に東京へ転居。
旧制成蹊高校から東京大学工学部応用化学科に入学。卒業後、技術者として昭和電工に入社。
勤務を続けるかたわら、1951(昭和26)年から神奈川県川崎市などでセツルメント活動(東大セツルメント川崎古市場)に参加し、紙芝居、幻灯などを制作。
1959(昭和34)年から出版活動にかかわり、1973(昭和48)年に勤務先を退社後、作家活動の他、テレビニュースキャスター、大学講師、海外での教育実践活動などに従事。
絵本の他、著作数は600点余り。
菊池寛賞、日本化学会特別功労賞、日本保育学文献賞、神奈川文化賞、越前市文化功労賞、東燃ゼネラル児童文学賞、巌谷小波文藝賞他、受賞多数。
ふるさと越前市の引接寺に眠る。

絵本作家「かこさとし」への道

1945(昭和20)年、終戦を迎え東京大学に戻ったかこさんは、演劇研究会に入ります。
そこで脚本の面白さを知り、大学3年生の時に童話劇を作り、上演しました。
大学を卒業し就職後は、人形劇に転じ、人形劇団プーク(PUK)に通い、人形劇の手伝いをしながら技術を学びました。そのうち、「もっと少ない人数でやれて機動性のある紙芝居をしたい」と思うようになりました。
紙芝居を始めた1949(昭和24)年ころから、同時に【セツルメント活動 ※】もするようになりました。
【※ セツルメント活動とは、都市の貧困地区に宿泊所や託児所などの施設を設けて、そこに住む人たちの生活向上のために助力する社会事業活動のことです。】
そこでかこさんは、子どもたちから多くのことを教わりました。
自作の紙芝居をしても、子どもたちは「つまらない」と思うと、いつの間にかいなくなって、どこかへ遊びに行ってしまいました。
しかし、テーマや登場人物がユニークな紙芝居(例 『どろぼうがっこう』)には夢中になり、少々絵が下手でも内容が面白いと食いついてきました。
こうした経験から、かこさんは、大いに鍛えられました。
また、セツルメント活動に来るこどもたちから教わった「絵描き歌あそび」には、歌う・描く・作り上げるといった【絵本作りの原点】を見るようだったといいます。
その後、セツルメント活動で知り合った内田路子氏の紹介で、当時福音館書店編集長であった松居直氏に認められ、第1作目の絵本『だむのおじさんたち』(1959年 福音館書店)を出版するに至り、絵本作家への道を歩み始めることとなりました。

かこさとしさん ~ 越前市への想い ~

かこさとしさんは、1926(大正15)年に生まれてから1933(昭和8)年に東京へ転居するまで、自然豊かな「越前市」で過ごしました。
越前市で暮らした8年間は、半世紀以上にわたり600点に及ぶ多くの作品を世に送り出してきたかこさんの創作活動の原点になります。
かこさん自身も「この短い時間は、私の一生にとってきわめて貴重な日々」であり、「私が語ったり述べたりする基本となっているのは、このわずか八年の北陸の小さな町の経験がすべてである」と語っています。

かこさとしさん墓所

かこさん墓所全景 墓所の全景

かこさん墓所近景 墓所の近景

天台真盛宗 別格本山 引接寺にあります。
引接寺は1488(長亨2)年に建立され、境内には、越前市指定文化財の地蔵尊と不動尊が祀られています。
(場所:越前市京町三丁目3-5)

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