越前府中・前田利家紀行「戦国武将のゆかりの地をたずねて」
府中三人衆(ふちゅうさんにんしゅう)

 天正3年(1575)8月、岐阜を発した織田信長は、まず敦賀郡の武藤舜秀(むとうきよひで)の城に入り、やがて府中の龍門寺に陣を構えて、越前の一向一揆を壊滅させ加賀国南部を押さえます。帰路信長は、越前国支配の徹底と加賀の一向一揆や越後の上杉勢力に対抗するため、越前を拠点に直属腹心の家臣を配置しました。信長は柴田勝家を越前一国の支配者として越前8郡を与えて北庄(きたのしょう)に置き、前田利家(まえだとしいえ)・佐々成政(さっさなりまさ)・不破光治(ふわみつはる)に「府中辺二郡」十万石をあてがっています。こうしたことから前田・佐々・不破の3人は一般に「府中三人衆」と称されています。信長は、この越前の国割に際し、府中三人衆は勝家の与力として軍事指揮下に入れ、また、勝家の行動を監視するといった目付(めつけ)としての役割も担わせ、ともに競合して領内の支配に当たることを命じています。

 この三人衆が拠(よ)ったところは、前田利家は府中城(越前市府中一丁目、朝倉氏の府中奉行所が前身といわれ、現在の市役所付近に比定)、佐々成政は小丸城(越前市五分市町)、不破光治は龍門寺城(越前市本町、現在の龍門寺を含む一帯)とされています。
(下欄位置図参照)

三人衆が拠(よ)ったところ

越前府中二十一人衆
 前田利家が尾張荒子(あらこ)領主になったおり、利家に仕えた最古参の家臣のことを一般に「荒子衆」と呼び、新領越前府中で召抱えていた家臣を「府中衆」と呼んでいます。両者はともに利家譜代の家臣として利家の信頼も厚く「本座者(ほんざもの)」に位置付けられ、のちに付き従う「新座者(しんざもの)」と区別されました。利家の府中時代の家臣団を記した「天正三年越前府中侍帳」には、1000石から70石までの知行高と人名が、「越前府中二十一人衆」として列挙されています。二十一人衆の中には、前田安勝(利家の3番目の兄)、前田秀継(同末弟)、青山吉次(同姪婿(めいむこ))、高畠定吉(同妹婿)など利家の一門をはじめ、これに次いで村井長頼といった利家近侍(きんじ)の荒子衆、ほかにも府中で召抱えたと思われる人名も見られます。また、この時期の家臣団には三輪・山崎氏など朝倉氏の旧臣も多く加わったといわれています。利家が天正3年(1575)に越前府中で大名となり、さらに天正9年(1581)には移封によって能登一国を与えられ、家臣の数も増加しましたが、府中二十一人衆を主軸に前田氏家臣団の基礎は府中時代に確立したといえるでしょう。